(。'(ェ)')σ 「気」って、分かる?
これから「気」についてあれこれ説明を進めさせていただく前に、みなさんに是非ご紹介させて頂きたいものがあります。それは、幻冬舎文庫の五木寛之著「気の発見」です。この文章から、現在の日本で「気」がどのように理解されているかが簡単明瞭に言い表されているのではないでしょうか。先ずは、その一部を下記にご紹介いたします。
「気の発見」――見えない世界への旅のはじめに 五木寛之著 ●対話者 望月勇(気功家) 「気」というものの存在について、私はあまり真剣に考えたことがない。いまでもそうである。しかし、見えないから「気」が存在しないなどと考えたことは一度もなかった。また科学的に証明されないから「気」はありえないと考えたこともない。 むしろ実験によってその存在が確認されるような「気」なら、それほど興味もおぼえなかっただろうと思う。「気」は見えないからおもしろいのである。科学的に計測される程度の「気」は、手にとって遊べるオモチャのようなものだ。
(中略) とはいうものの、「気」や「気功」といったものに対し、世間は長いあいだ怪しげなものを見るような目で対してきた。いまもそうだろう。 社会革命への夢が遠ざかったあと、人びとの夢は人間内部の探求へと向かった。身体革命の夢のなかから、「気」や霊的(スピリチュアル)世界への関心が高まっていったようにも見える。 さらに近代の科学的思考への反省から、「モノ」と「ココロ」のむすびつきが見直されはじめた。そんな時代の風潮のなかで、「気」や「宗教」がにわかにクローズアップされてきたのである。とはいえ、そこにはある一線が引かれていることもまちがいない。 その線の向こうになにかが見えていながら、私たちはなかなか一歩をふみだすことができないでいた。その線をこえた場合には、「向こうの人」あつかいされてしまいかねないからである。 私は「気」を神秘的なものとは考えていない。それと同時に、科学的な立場でそれを証明してほしいとも思わない。 中国では国家的なプロジェクトとして、「気」の科学的解明と応用に取り組んでいるという。なにごとにも徹底的にやりとげようとする国だから、いずれ目に見える成果も示されるはずだ。 しかし、私は「気」は、あくまで感じる世界であると思っている。「愛」の数値を証明されたところで、それにはなんの関心もないのと同じことだ。 「愛」などと甘ったるい言葉を使うのはやめてくれ、と、いう声がきこえるような気がする。しかし私は、「愛」のない「気」の追求や「気功」など、なんの意味もないと思っている。